私は大して歴史好きというのでもないから、普段であれば通りすぎるジャンルのスポットなのだが、きょうは友人と一緒の移動で、先週から鎌倉時代の武将ゆかりの地を訪ねてきたからその流れで寄っていくことにした。
友人は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も見ていたからか、私よりはだいぶ詳しい。
墓と呼ばれるものは五輪塔で県指定史跡なのだが、どう見ても個人の家の敷地内にある感じ。
主屋は寄棟二つ櫓総二階、推定明治時代築の養蚕農家だ。
でもお墓部分は特に断わりなく立ち入ってもよさそう。
義賢は、わかりやすく言えば、木曽義仲の父である。義仲は源頼朝とともに平家打倒のため戦った武将だ。つまり平安時代末期の人。
もう少し俯瞰すると木曽義仲と源頼朝はいとこにあたる。
┌ 義賢の兄 ─(子)─ 源頼朝
─┤
└ 義賢 ───(子)─ 木曽義仲
という関係。頼朝と義仲はライバル関係だったが、実は義賢と兄もライバル関係だった。
義賢は結局、兄との対立の結果、居城を奇襲されて殺される。殺されたとき義賢は30歳前後だったといわれる。
義賢が襲撃されたとき義仲は家臣たちによって保護されて木曽に落ち延びた。
義賢の墓は五輪塔。
建てられたのは平安末期。そもそも日本で五輪塔が誕生したのが平安末期なので、埼玉県内の五輪塔としては最も古いもののひとつと考えられている。
五輪塔は5つのパーツからなるが、当時のものは▲型の部分と●型の2パーツのみで、他は昭和時代の後補。
墓のある場所から道路をはさんで南側に、源氏三代の慰霊塔というものがある。
大行院が建立したもののようだ。
立入禁止等の看板はないのでお参りしていこう。
たくさんの石碑や五輪塔、無縫塔がある。
とにかく数で押してくるところが大行院らしい。
その霊場の石塔の基壇に、義賢を中心とした源氏三代の絵解きがあり、とてもわかりやすい。それを参考に、改めて義賢とその子木曽義仲の歴史を簡単に紹介しよう。
義賢の兄は関東地方の領地を治めていたが、勢力を拡大しすぎて京都にいる父親と対立した。そのため弟の義賢が群馬県の吉井町に派遣されて北から兄を監視することになった。
そこで義賢は関東の有力武士である秩父氏に婿入りして、兄に対抗できる後ろ盾を手に入れた。
妻とともにこの地域に館を建て、そこで子ども駒王丸(後の木曽義仲)を授かった。義仲の産湯を使ったという清水が鎌形八幡宮の境内にいまも湧いている。
義賢の勢力拡大を恐れた兄は、義賢が住む大蔵館を奇襲し、義賢は義父とともに討ち死にする。
このとき木曽義仲はまだ2歳で、精鋭の家臣たちに守られ木曽に逃げ延びることができた。
木曽で義仲は四天王と呼ばれる忠臣や、巴や山吹といった女たちと出会い、共に成長して勢力を蓄えていく。
義仲が26歳になったとき、平家追討の令旨を得て挙兵した。
義仲軍は時の勢い得て連勝し、源頼朝に先んじて京都に入り平家を放逐、朝日将軍という称号を得るほどになった。
だがやがて義仲は京都での立場が悪くなり、頼朝とも対立するようになっていく。
義仲は頼朝への恭順の証として、長男の
しかしついに頼朝との対立は決定的になり、義仲は頼朝の軍勢との戦いに破れ、滋賀県大津付近で討ち取られてしまった。
義仲が敗れたことにより、鎌倉で人質となっていた息子の義高もそのままでは殺される運命になった。
義高は妻の協力で鎌倉を脱出し、実家のある大蔵を目指したものの、狭山市の入間川あたりまで来たところで追手に殺されてしまう。わずか12歳だった。
義仲の側室で義高の母とされる山吹御前は義仲の死後も見逃されて関東に逃げ延びてきていた。彼女は義高の死を知って出家し班渓寺を建て霊を弔ったという。
また、伝説によれば、義仲には木曽の側室にも子どもがいたとされる。
かつて大蔵館が襲撃されたとき義仲を逃がした家臣たちは、密かにその遺児をときがわ町に招き、家の再興を計ったということが萩日吉神社の文書にあるという。現在萩日枝神社で流鏑馬を奉納しているのは、義賢の忠臣だった7つの家の子孫なのだともいわれている。
(2026年01月21日訪問)
