越生駅に立ち寄った。JR八高線と東武越生線の交わるターミナル駅だ。
八高線の日高~毛呂山~越生は学生時代に自転車や原チャリで何度も訪れたエリアで、いまでもなつかしさを感じる。知人が住んでいたとか、馴染みの店があったとかいうわけでもないが郷愁を感じる場所なのである。
当時私は川越に住んでいた。学校帰りなどに大して目的もなく徘徊していると、たいがいは八高線が通る関東山地東縁の山並みに突き当たる。そこからさらに西へ進むことはできないことはないが、林道のようなかなり険しい山道になるし、その先の高麗川上流域、さらに先の入間川の上流域というのはライダーたちが休日に1日ツーリングを楽しむようなルートであって、学校帰りに徘徊するような場所ではないのだ。
したがって、川越、鶴ケ島、坂戸あたりの徘徊癖のある若者には、八高線というのは世界の西の終わりなのである。このあたりで夕暮れともなれば、あきらめて家路につくしかないという、そんな場所が日高~毛呂山~越生なのだ。
NHKで渋沢栄一を主人公とした大河ドラマが放送されている関係で、今回越生には渋沢平九郎自決の地を見に来たわけだけれど、渋沢平九郎って昔から有名だったのかな。どうもそのあたりの記憶がないのだ。私の学生時代の記憶では、越生といえば太田
太田道灌は室町末期の武将で、江戸城を築城したことと歌に秀でた人物としてよく知られている。
伝説によれば道灌は越生町で生まれたという。これが事実かどうかは不明だが、道灌の父、道真は隠居して出家し、越生町郊外の龍穏寺付近の寺に住んだというので、太田道真、道灌親子にとって縁の深い町であることは間違いない。
その道灌の伝説で特に有名なのは、山吹の娘の物語である。
道灌が若いころ鷹狩りをしていると、にわか雨にみまわれてしまった。近くの農家に寄り雨具を所望したが、若い娘が出てきて黙ってヤマブキの花1輪を差し出しただけだったので、道灌は怒って立ち去った。
平安時代末期に編纂された歌集にヤマブキを詠んだものがある。
七重八重 花は咲けども 山吹の
実のひとつだに なきぞ悲しき
この歌はヤマブキはたくさんの花が咲くのに実がないという内容と、雨なのに
農家の娘はヤマブキの花を差し出すことで、自分の家は貧しくて差し上げられる蓑ひとつだにない、ということを伝えようとしたのだ。
あとになってそのことを知った道灌は自分の無学を恥じて、和歌を学び文武両道に優れた武将になったという。
この伝説の舞台がこの越生のあたりだと言われている。(ほかにも都内に候補地がいくつかある。)
駅前には太田道灌のモニュメントがある。
やっぱり、越生といえば道灌、だよね???
越生駅に立ち寄ったのは、全洞院で駅待合室に渋沢平九郎に関する展示があるというポスターを見たからである。
パネル展示を中心とした展示だったが、越生以外の平九郎の顕彰碑の場所やゆかりの場所など、かなり細かい展示があった。
ところでこの駅、なんだかとても分かりにくい構造なのだよね。
通常、待合室って券売所と改札の前にあるはずなのだけれど、この駅舎はほぼ全体が待合室で、券売所や改札とつながっていないのだ。
八高線は無人駅で、従来的な改札の構造がなく、駅前から直接ホームに入り、ホームに券売機があるという構造らしい。
八高線の毛呂駅方向の様子。
駅前は夕方だったこともあり、閉じている店も多く、さびしい雰囲気だった。
角のコンビニ的な酒屋さんだけが営業していた。
「越生特産みやげ」などと書かれていて、田舎の観光地に来たな~という気分になれる。
この店の裏手には自転車預かり所がある。
主に高校生が電車通学するためのものだろう。
自分は高校時代には自宅から自転車通学できたので、自転車預かり所って使った経験はないのだけど、同じ高校にはかなりの生徒が近くの駅まで電車で来て、駅に預けてある自転車で通学していた。
何だか「青春!」って感じがする。
ここで代々、切ない物語が繰り返されたために、その情念が建物やコンクリに染みついてしまったのではないかと思えるような空間。
目が吸い寄せられて離れなくなってしまった・・・。
駅前を少し歩くとアーチ看板がある、
見た感じそれほど古いものでは無さそう。
でもこうしたアーチ看板って以下にも田舎町という感じで、いつまでも残ってほしいものだ。
この写真のアーチ看板の右側の路地を入ると、駅前商店街の無料駐車場があるので、駅のあたりを散策するのには駐車場の心配はいらない。
駅前通りのつきあたりには法恩寺という寺がある。
渋沢平九郎の首は街道に晒された後、法恩寺内に埋葬され碑が建てられているが、もう暗くなってきたのでお参りするのはやめておく。
それより、きょうはドングリを拾いにきたのに、その目的がまだこれからなのだ!
(2021年10月06日訪問)