柳沢寺

神道集に語られる伝説を起源とする寺。最近五重塔を建立。

(群馬県榛東村山子田)

柳沢寺(りゅうたくじ)。群馬県内ではまずまず規模の大きな寺だが、街道筋から外れていてわかりにくい場所にあるためか、あまり知名度は高くない。

南北朝時代に作られたという説話集「神道集」にはこの寺の縁起が書かれている。それによると、平安初期のころ最澄が群馬県地方を巡教(←これはおそらく史実)したおり、船尾山に妙見院息災寺という寺を建立した。その寺はその後200年以上にわたって栄えたようだ。1079年ごろ平常将という豪族がその息災寺に願掛けして子供、相満(そうま)君を授かった。願掛けのときに約束にしたがって、常将は子供が5歳になったとき学問をさせるために寺に修行に出した。ところが榛名山に住む天狗が相満君をさらってしまう。それを聞いた常将は息災寺の僧が相満君を妬んで殺したと思い込み、寺を襲撃した。寺が焼け落ちるとき天狗が現われ、常将は若君が天狗にさらわれたことを知り、寺を焼き打ちした自分を恥じて自害してしまう。柳沢寺は常将の奥方が息災寺を再興するために建立したのが始まりだという。平安期の伝説というのはスケールが大きくて幻想的な物語が多いので面白い。

息災寺が焼け落ちるときに、矢につがえて放たれたとされる観音像が先に紹介した矢落ち観音である。平常将は上総地方の実在の豪族で、初めて千葉姓を名乗った人物だ。現在の千葉県の名前の元になった人物である。千葉県の人たちは、常将が上野国で自害したという伝説があることを知っているのだろうか‥‥。

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伝説に登場する船尾山の寺がどこにあったかは不勉強のためよくわからないが、ここより 3 km ほど登ったところに船尾滝という地名がある。

本坊方面の参道の入口である。奥に見える杉木立が柳沢寺の境内だ。寺の境内は横に長く、写真の参道のほかに右のほうにももう一つ参道がある。北関東の天台の古刹にはこんな雰囲気の境内の寺がいくつかある。案外、船尾記に登場する息災寺は柳沢寺そのものかも知れない。

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参道入口にある不動堂。普通の住宅建築の工法で建てられている。

宝剣はコンクリ製。

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本坊エリアへと移動。

本坊の山門は薬医門。

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本坊には他に勅使門がある。勅使門とは勅使などの特別の来客を迎えるときにだけ使う開かずの門のことである。

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この勅使門は変わった門で、門扉を取り付けてある柱の真上に棟がある。つまり棟門である。しかし左側にむかって屋根が長く伸びており、屋根の下部が控え柱の上に載っているため、薬医門のようにも見える。

そもそも棟門にこれほど大きな屋根を載せるのは無理があるのだが、薬医門というのでは勅使門としての格式にもとると考えたのであろうか‥‥。

本サイトでは棟門と判断しておく。

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本坊の本堂。

方丈のような形式。中央にはとってつけたような唐破風向拝があるが、こんな向拝はないほうがすっきりすると思うがいかがであろうか。

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本堂の右側には玄関、庫裏。

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本堂の右側には玄関、庫裏。

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続いて、境内の右エリアへと移動する。右エリアの境内への途中には五重塔がある。

平成10年の建立でまだ新しい。木造塔で意匠は純和様。全体的なシルエットは悪くないが、一階の部分の裳階がいただけない。塔全体が小さいのに一階の内部空間を広く確保しようとしたためであろうか。(似たような塔に平成13年建立の三重県の津観音の五重塔があり、雰囲気も似ているのが気になるところだ。)

基壇の下部は納骨堂になっており、これもマイナスポイントだろう。せっかく数億円からのお金を使うのだからあまりみみっちいことはしないで欲しいと思うのは私だけであろうか。

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五重塔の裏手には千手観音堂がある。参道入口にあった不動堂と同様、住宅建築的な工法で建てられている。

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五重塔の前方の敷地に大変に気になる物件を発見。間違っているかもしれないのを覚悟で言うが、これは 奉安殿 ではないだろうか?

奉安殿とは戦前に御真影(天皇の写真)や教育勅語を祀るために学校の敷地内に建てられた保管庫のことである。奉安殿はGHQによって破却させられたはずなので残存しているものは非常に貴重である。もちろん現在残っているものは奉安殿と呼ばれているはずはない。GHQの目を逃れるために名目上は他の用途の建物とされたからである。

この建物、たとえ本物の奉安殿ではなかったとしても、限りなく奉安殿に近いものだと断言しておく。

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境内の右エリアに到着。

右エリアにはもう一つの参道がある。まるで2軒の寺が並んでいるようにも思えるが、どちらも柳沢寺なのである。

参道の入口には釘貫門がある。

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釘貫門を入って進むと、三間一戸楼門。

オレンジ、水色、緑のペンキで塗られている。この色に塗り替えられたのは今から20年ほど前になるが、その時は「とんでもないことをしてくれたな!」という感想しか持てなかった。今は日焼けした皮膚がむけるように、ペンキがぼろぼろにはげ落ちて当時のけばけばしさは薄らいできている。

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楼門を過ぎると、短い石段があり右手には袴腰鐘楼がある。

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その先にあるのは観音堂。

何度も吐露しているが、私はこのような千鳥破風と唐破風向拝を重ねたような堂は好きではない。まして、屋根にくらべて軒が高かったり、大棟が短かすぎるとなればなおさらだ。

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いかにも江戸建築という風情。榛名や赤城の山麓にはこんな感じの仏堂や社殿が多いような気がする。

まあこれはこれで、江戸時代という時代を語る建築なので歴史的には意味があるのだろうが。

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境内には他に阿弥陀堂(写真)、鎮守社があった。

榛東村にお住まいのT氏が件の奉安殿風忠霊塔について調べてくださった。

結論から申し上げると、残念ながら、あの「英霊廟」は、「奉安殿」の移築ではなく、昭和28年に新築されたものでした。

新設工事設計書および契約書によると、昭和28年1月15日着工、同年3月15日完成予定、建設費は645,000円(実際には30,000余計にかかっているようです)。日本土建株式会社(前橋市)が設計・施工しています。発注者は桃井村(現在の榛東村北部にあたる)で、群馬県に技術員の派遣を求めていますから、設計書のチェックなどを県職員に依頼したと思われます。資金の一部は、遺族や退役軍人会などの寄付金によるもので、土地は柳沢寺からの提供です。

同年5月22日に、群馬県知事、近隣町村長、遺族会関係者など(おもしろいところでは、前の年の10月に初当選したばかりの福田赳夫、のちの内閣総理大臣も来ています。予定表に名前はなく飛び入りだったか?)などを来賓として招き、372名(記帳者のみの数)が参加して除幕式がおこなわれています。

来賓に配られたお土産は風呂敷と饅頭4個、一般参加者には茶筒。来賓のお包みは2000円~500円。折り詰めの発注書などもあり、花火、掛合漫才、舞踊、鶴若、音楽などのプログラムが組まれていましたので、1日楽しめるようなイベントだったのではないでしょうか。

このとき、彰忠碑が桃井(新制)中学校校庭より掘り出され(米軍駐屯を前に、三八式歩兵銃などとともに校庭に埋納されていたようです。)、英霊廟に隣接する現在地に移されたとのことです。この作業及び、敷地の整地工事は、勤労奉仕(出役)依頼文が残されていることから、村民の手によると推察されます。

「英霊廟」の名称につきましても、10くらいの候補の中から、各地区ごとにアンケート調査をおこなって決めたようです。

このように、「英霊廟」の建設は、桃井村あげての大イベントだったといえますが、現在、このことをちゃんと覚えている人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

なお、現在自衛隊演習場となっている相馬ヶ原(榛東村南部(旧相馬村))が、米軍より全面返還されるのは、昭和32年ジェラード事件の悲劇の後、昭和33年になってからのことです。

(2002年03月09日訪問)

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