このあたりがまだ村だったころ、この近くに沼があった。この沼に朝日がさす時間になると、底で光り輝くものがあった。ある者がその沼を網でさらってみたところ、金銅の仏が引き上げられた。その仏を祀って観音堂を立てたのがこの寺の始まりであり、「日輪寺」という名前の由来でもあるという。
弘法大師が諸国行脚のおりこの村を訪れ、その仏の由来を知り、それほどありがたい仏をそのままにしておくのはおそれおおいといって、一夜にして観音像を彫り、金銅仏をその胎内に収めたという。それが、今日に伝わる日輪寺の十一面観音像のいわれである。
観音像は藤原時代末期の作と推定されており、群馬県の県重要文化財に指定されている。
楼門を過ぎると、正面に観音堂がみえる。
ちょっと前までは崩れかけたような茅葺きの堂だったような気もするが、銅板葺きの立派な建物に変わっていた。
この観音堂には、暴れ絵馬の伝説を持つ絵馬が飾られている。夜な夜などこからか馬が現れて、田畑を荒らすので村人が困っていた。あるとき村人がその馬の後をつけていったところ、観音堂のそばで見えなくなった。
見れば観音堂には沢山の絵馬があり、その中のひとつが田畑を荒らす馬と姿が似ている。さてこれは、絵馬の絵があまりに上手であったため、命が宿っていたずらをしたのであろう、ということになり、すぐに絵師を頼んで絵の馬に綱を書き加えさせた。それ以来、田畑を荒らす馬は現れなくなったという。
その伝説を持つ絵馬が左写真である。確かにとって付けたように手綱が描かれている。
しかしこうして中をみると、建物は意外に古そう。四天柱の様子などを見るに、江戸初期くらいまで行くのではないか。
現在、観音像は観音堂の後ろにある耐火建築の倉庫に収蔵されている。
さて、私が日輪寺を名刹だと感じるもう一つの理由が、この寺の伽藍配置にある。
お寺には「
この日輪寺では、偶然かもしれないが、山門、観音堂、本堂が直線的に南北にならぶ配置になっており、古代仏教の伽藍を思わせるのである。
まあ、実際にはちょっと軸線はずれていて、一直線に並んでいるとは言えないが。
本堂の方へ行ってみよう。
途中には薬医門の中門がある。
本堂は寄棟で、向拝は建物の中心に位置している。
これも元は茅葺きの建物だったろう。
本堂の前には橋がかかってる。
一応、本サイトでは、本堂へのメインの参詣路が池を渡っている場合、無条件で「放生池」と認定することにしている。
庫裏。
中門の前には摩尼車があった。後生車か摩尼車か判定に迷うところだが、タテ回転なら後生車、ヨコ回転なら摩尼車ということにして、これは摩尼車としようか。
本来、摩尼車であれば回転体の中にお経が封入されているのであるが、どうせ内部がどうなっているかなど確認もしようがないし、タテ回転かヨコ回転かで当分は進めてみようと思う。
住職の墓か。五輪塔や無縫塔が並ぶ。
中央にある祠は祠内仏である。
内部の石仏は、暗いのと摩滅でよくわからなかった。地蔵菩薩か。
(2014年05月18日訪問)