いまから約1年前、この近くまで仕事で来て、食事のためにプゥテキ僧院へ立ち寄った。
そこでこれまで見たことのない珍しい習俗をいくつも見て、私はこの村に興味を持ったのだった。
この村は「プゥテキ」と呼ばれる教祖が興した仏教系新興宗教の信者たちが作った村だったのである。
前回来たときには仕事の途中だったし、団体行動中でもあったのであまり奔放に動き回ることもできなかった。
そこで今回のミャンマー訪問では、ぜひこの村を再訪しようと思ったのだ。
寺の様子は前回来たときとあまり変わっていない。
非常に広い範囲が整地されていて、建築中なのか完成しているのかよくわからないパゴダが、ところどころに建っている。
前回来たときにはなかった仮設ステージっぽいものができていた。
例祭で使うものなのだろう。
その例祭というのは、6月ごろと12月ごろの年2回執り行われるというのだが、その正確な日付を調べるのが今回の再訪の目的のひとつでもある。
例祭で使われるという講堂。
前回来たときの話だと、内部で機織りをして、祭礼の日に布の販売をするという。
前回のときは仕事のスタッフの運転する車の窓から見ただけだったので、今回は中まで入ってみよう。
内部は奥行きに3間の空間。
キリスト教の三廊式教会堂に似た空間だ。
側廊の部分には数台の
昨日、今日にもここで仕事をしていたような雰囲気だ。
高機の形式は、緒巻の部分に大径のドラムがあるタイプで、私がカレン州で見た高機はすべてこのタイプであった。
室内の突き当りにあった玉座。この場所に教祖であるプゥテキが座り、講話をするのであろう。
前回来たときには、何の予備知識もなかったが、その後いろいろと伝え聞いたことを、簡単に紹介しようと思う。
プゥテキはカレン州のズェガビン山麓ドンイン村のクリスチャンの家に生まれた。18歳ごろからシャーマン的な能力を現し、仏教的な修行を経て、1990年代には教祖として多くの信仰者を集めるようになっていた。会う人の先祖のことを言い当てる能力があるとされている。
ミャンマーの仏教は上座部仏教というもので、日本の大乗仏教から比べると原初の仏教に近いストイックなものだという印象がある。
だがその一方で、高僧が超常的な能力を発揮することで信者を獲得していくという特性も持っている。たとえば、ここへ来る途中にあったターマニャヒルのターマニャ僧正などは、正統な高僧でありながら幾多の超常現象を起こしたと公然と語られる。したがって、まずその素地においてカルトが発生しやすい環境があるのである。
プウテキ発祥の地といわれる、パアン市郊外のズェガビン山はカレン仏教の聖地だ。日本でも富士山周辺に多くの新興宗教があるように、ズェガビン山の周辺にもカレンカルトがいくつかある。当サイトで紹介している、レーケーやドゥエイなどもカレンカルトである。ほかにも(未確認だが)テラコン、ルーバウンといったカルトがあるという。
プゥテキも最初ズェガビン山のふもとで始まった。おそらくプゥテキパゴダとして遺跡のように残されるパゴダ群がその場所なのだろう。この僧院の境内にある謎の赤い物体、雪だるまのような形をした建物(下写真)はズェガビン山麓にあるプゥテキパゴダの仏塔を木造で再現したものなのである。
プゥテキはズェガビン山麓で信徒を集め、教祖として台頭していった。彼の教義は、菜食主義、瞑想、カレンの伝統的な生活を守りながら、未来仏(仏陀の再来)を待つというものだ。
しかし彼の振るまいは伝統的な仏教から見ると、破戒的な要素を持っていた。上座部仏教の僧侶は自分を着飾ったり、音楽などの芸能を楽しんではいけないという戒律を持つ。だがプゥテキは、僧侶の着る土色の袈裟を着ず、装飾された美しい衣裳を身にまとい、化粧をした姿で人前に立つ。そして彼の誕生日には音楽や芝居などを上演する。そうした要素は正統の仏教界から見れば、僧侶にあるまじき行いであり彼を僧侶として認めることはなかった。そして最後には、ズェガビン山の高僧により山麓から立ち退きを命じられ、信徒とともにこの地に移住したという過去を持っている。
したがって彼は「
聞くところでは彼は普段はズェガビン山麓のドンイン村に住んでいて、例祭のときにだけこの村に来て人々の前に立つという。最大の例祭は年2回あり、この写真の祭壇もそのために使われるものなのだ。常設ではなく、仮設のものなので場所、形、色などは毎年違うらしい。
私が前回に訪れたときは、この祭壇の周りに立てられている
今回は、前回のときと装飾の形状も違い、赤と黄色の丸い布の梵天が無数に立っていた。赤と黄色は太陽と月を表すものだと思われる。
そしてその下にはたくさんの神々を描いた曼茶羅のようなものが下がっている。これは日本でいうと天部の神々のイメージに近いものである。
赤黄の梵天とお供え台は、祭壇の周囲を囲むように無数に立てられていた。
前回のときと違っているのは、前回がプゥテキの誕生祭だったが、今回はおそらくこれから行われる予定の豊作祈願祭のためだからではないか。
台の平面形は十字型で、その上におこわが供えられる。
構造材は白く塗られていた。
そのときの祭礼で祭壇をどのような色に塗るのかは、プゥテキのお告げによって決まる。
境内に飼われているシカ。
例祭では、プゥテキは牛車のような車に載って村内をパレードする。このシカはその車を牽引するために飼われているのだ。ほかに牛、馬、ヤギ、といったさまざまな動物が代わる代わる牽引する。
人間だけでなく、動物たちにも功徳を積ませるために、車を引かせるのだという。動画を見たことがあるが、シカはそういう動物ではないので、信徒に首根っこを押さえられて引きずられるように歩いていた。
境内ではいままさに収穫祭のための飾り付けの準備が進んでいた。
それらは境内にある七神堂や、祭壇の周りに並べられる。
祭壇の周りでは、まるで神を祭壇に誘い込むパンくずのように神饌が置かれている。
いや、これは想像通りのものなのではないかという気がする。
日よけの下に集まり、タマゥを編む女たちがいた。
ここで例祭の日付を確かめようと、スマートフォンのカレンダーを見せて彼女たちに訊ねてみた。しかし誰にカレンダーを見せても「?」という感じで、黙ってしまい日付を教えてくれないのだ。スマートフォンを見たことがないのでびっくりしているのか。
あとで知ったのだがこの村ではプゥテキの教義により旧暦(カレンの暦?)を使っているため、太陽暦のカレンダーを見せてもまったく理解できなかったのだ・・・。
彼女たちが身に付けている衣裳は、カレン民族の伝統的な衣裳である。
上着は布を折り曲げて首の穴を開けてかぶっただけの貫頭衣、インジー。下は布を筒状に巻いただけのスカート、ロンジーである。インジーの刺し子のような細かい模様は、綴れ織りや刺繍によって描かれる。ロンジーは履いたときに横縞になるような縞模様。色使いは、赤、青、白の3色を基調とする。
こうした布は、
最近では近代的な動力織機を使って、幅広の布を織ることもできるし、より複雑な模様(ひし形などの斜線のあるもの)も売っているが、それはもともとはカレンのロンジーにはなかったパターンだという。
一方で写真の彼女が頭につけている布のひし形の模様は伝統的なもので、龍を表すモチーフだという。
男たちが頭に付けている鉢巻きみたいなものにもひし形の繰り返しが織りで描かれている。
これも龍のモチーフであろう。
女性と男性の龍のデザインには若干の違いがあるようだ。
こうした衣裳は、私が仕事で滞在しているパアン市内ではめったに着ている人を見ない。
だがこの村ではほぼすべての住人が伝統的な衣裳を着ているのである。
初めてこの村に来たとき、私はここが辺境なので古い習俗が残っているのだと勘違いした。たしかに辺境には違いないが、パアンよりはタイ国境に近く、どちらかといえば新しいものが入って来やすい場所なのである。
ではなぜこの村では伝統的な衣裳を着て暮らしているのかというと、王様であるプゥテキがそのように指示していたからなのであった。
私はカレン州滞在中、なるべく西洋や日本の技術に染まっていないカレン民族独自の手仕事を見つけたいと思っていた。このカレンニシナル村でその手がかりがあるのではないかと思って再訪してみたのだが、どうもそれは私の見込み違いだったようだ。
思えば、この村だけが古い衣裳を着用し、住居に不思議な魔除け飾りをしていて、その周囲の村にはまったくその特徴が見られないということには、うすうす疑問は感じていたのだ。
もしこれが古い文化が残ったものであれば、周辺の村々にもグラデーションのように同じ習俗が分布していなければおかしい。
ではこうした細かい刺繍のあるインジーがこの村で作られているのかと訊ねると「こんな複雑な織物を作るのは大変なので町で買ってくる」と、身も蓋もないような発言も飛び出した。
もっとも、パアン市ではこのような細かいインジーを売っているのはほとんど見かけないし、近郊の機織りの町エインドゥでも作っている様子はない。
したがって、まだ私の知らないどこかの村で、こうした細かい織物が作られている場所があるのだろう。なんとかそこへ行ってみたいものだ。
古い手仕事を探すという目的は、失敗に終わった。
だがこのプゥテキという宗教が非常に興味深いものであることには変わりない。いつかこの例祭を自分の目で見てみたいものだ。
さて、これからこの村の周囲になにか面白い場所がないかブラついてみたいと思う。
(2015年05月02日訪問)